八千草薫の国籍は日本人!本名のルーツが示す中国籍疑惑の真相

八千草薫の国籍は日本人!本名のルーツが示す中国籍疑惑の真相

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八千草薫さんの国籍を調べているあなたへ、結論から言うと国籍は日本人の可能性が非常に高いです。

なぜ中国籍の噂が出たのか、本名の「松田」にはどんな意味があるのか、気になる疑問をすべて解決していきます。

この記事では国籍の真相から夫・谷口千吉との馴れ初めや子供がいない理由、宝塚時代の活躍まで詳しくお伝えします。

この記事を読むとわかること
・八千草薫の国籍が日本人と言える根拠と中国籍の噂の真相
・夫・谷口千吉との馴れ初め・略奪婚の噂・子供がいない理由
・宝塚時代から晩年の闘病まで八千草薫の人生の全体像

八千草薫の国籍は日本人!中国籍噂の真相

八千草薫さんの国籍が気になってここにたどり着いた方、まず結論からお伝えすると、八千草薫さんの国籍は日本人で間違いなさそうです。

なぜ「中国籍では?」という噂が広まったのか、その真相も含めて詳しく見ていきましょう。

国籍が日本人と言える根拠

八千草薫さんの国籍についてネットで検索すると「中国籍では?」という噂が出てくることがあります。

でも、現在わかっている情報を整理すると、八千草薫さんの国籍は日本人の可能性が非常に高いというのが結論です。

まず、出身は大阪府大阪市。

幼少期に父親を亡くし、母子家庭で育った八千草薫さんは大阪で生まれ、大阪の小学校・高校へと進学しています。

そのまま宝塚音楽学校に合格し、1947年に宝塚歌劇団に入団しているという、生粋の大阪育ちの経歴があります。

本名も「松田瞳」という日本人の名前で、結婚後は夫の姓「谷口」を名乗っています。

海外にルーツがある人物であれば、何らかのサイン(二重国籍の告白や外国語でのエピソードなど)がどこかに出てくることが多いですが、八千草薫さんに関してはそういった情報は一切見当たりません。

「日本人と言える根拠はある?」と気になる方も多いかと思いますが、本名のルーツや学歴など、複数の角度から見ても日本人説を否定する根拠は存在しないんです。

本名「松田」が示す日本人のルーツ

八千草薫さんの本名は谷口瞳(たにぐちひとみ)で、旧姓は松田瞳(まつだひとみ)です。

この旧姓「松田」のルーツを調べると、興味深い事実が浮かびあがります。

「松田」という姓は、神奈川県相模国の足柄郡松田庄を起源としているとされています。

中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)からの流れで、藤原秀郷流があると伝えられており、そこから現在の京都・兵庫・大阪などへと子孫が広がっていきました。

そして、現在「松田」という姓が最も多い都道府県は大阪府なんです。

大阪生まれ、大阪育ちの八千草薫さんにとって、「松田」という姓はルーツ的にも非常に自然な日本人の姓といえます。

中国籍の方が「松田」という日本由来の姓を名乗ることは理論上ありえなくはありませんが、出身・学歴・経歴のすべてが大阪を中心とした日本国内であることを考えると、この姓のルーツもやはり日本人説を強く支持するものです。

本名にまつわるこのルーツが、八千草薫さんの日本人説のひとつの根拠となっています。

中国籍と噂された理由と真相

「八千草薫 国籍」で検索すると中国籍の噂が出てきますが、これには理由があります。

いくつかの要素が重なって、このような噂が広まったようです。

中国での高い人気と知名度

八千草薫さんが中国籍と噂された主な理由は、中国での絶大な人気にあります。

1957年の映画「雪国」は中国でも公開され、大きな人気を集めました。

1975年放送のドラマ「赤い疑惑」では山口百恵さんの母親役を演じ、このドラマも中国で視聴され「理想の母親像」として中国のニュースサイトなどで紹介されました。

また、中国では八千草薫さんのことを「常緑樹」と表現することがあります。

これは「年を重ねても失わなかった若々しさ」を称える表現で、中国での彼女への敬意が込められた言葉です。

2019年の訃報も中国ニュースで取り上げられた

2019年に八千草薫さんが88歳で亡くなった際には、中国のニュースサイトやSNSでも大きく取り上げられました。

海外のニュースサイトで大きく取り上げられる日本人女優というのは非常に稀なことで、それが「実は中国人なのでは?」という憶測につながったようです。

真相はただの人気者

実際のところ、中国籍だという根拠はどこにも存在しません。

単に、海外でも愛された日本人女優だったというだけのことです。

世界に愛された日本人が中国人と疑われてしまうというのは、八千草薫さんにとって少し複雑なエピソードかもしれませんね。

小学校・高校から読み解く生い立ち

八千草薫さんは1931年1月6日、大阪府大阪市で生まれました。

幼い頃に父親を亡くし、母親がひとりで育ててくれた環境の中で育ちます。

小学校は大阪市立聖和尋常小学校(現:大阪市聖和小学校)に通いました。

聖徳太子の名前にちなんだ学校名で、現在も大阪市内に存在する公立の小学校です。

その後、8歳の頃(1939年)に第二次世界大戦に突入します。

思春期がちょうど戦時中と重なり、自宅も空襲で焼けてしまうという経験をしました。

おそらく1945年3月からの大阪大空襲の影響と考えられています。

戦争という厳しい時代を経た八千草薫さんは、色や夢のある世界への憧れを強めていきました。

中学・高校は大阪府立和泉高等女学校(現:プール学院中学校・高等学校)へと進学します。

このプール学院は1879年にイギリスの宣教師チャールズ・F・ワレンが設立した歴史あるミッションスクールです。

そして高校在学中に宝塚音楽学校に合格するという快挙を成し遂げています。

生い立ちを見てみると、戦時中の大阪で育ち、日本の公立小学校・キリスト教系の女学校へと進んだことがわかります。

海外国籍であることを示すエピソードは生い立ちのどこにも見当たらず、むしろ日本人らしい歩みが確認できます。

八千草薫の国籍を調べる人向けの関連情報

八千草薫さんの国籍を調べている方が気になりがちな関連情報を、夫との関係・略奪婚の噂・子供がいない理由など、幅広くまとめました。

夫・谷口千吉のプロフィールと馴れ初め

八千草薫さんの夫は映画監督の谷口千吉(たにぐちせんきち)さんです。

以下に谷口千吉さんの基本プロフィールをまとめます。

項目詳細
生年月日1912年2月19日
没年月日2007年10月29日(95歳)
死因誤嚥性肺炎
学歴早稲田大学文学部英文科中退
職業映画監督
代表作『銀嶺の果て』(1947年、三船敏郎デビュー作)、『潮騒』(1954年)など

1933年にPCL(東宝の前身)に入社し、助監督として映画界に入った谷口千吉さん。

当時一緒に仕事をしていた黒澤明さんとは親友の間柄で、「芸術の黒澤、娯楽の谷口」とまで言われたほど東宝アクション映画の第一人者でした。

2人の出会いと馴れ初め

八千草薫さんと谷口千吉さんが出会ったのは、1956年の映画「乱菊物語」の撮影現場でのことです。

このとき、谷口千吉さんはすでに妻帯者でしたが、八千草薫さんはすっかり惚れ込んでしまったようです。

後のインタビューで八千草薫さんはこう語っています。

「それまで、監督は偉い人だからと緊張し、ほぼ話はできなかった。でも主人のときは本当に楽しくてね。現場はユーモラスな会話が飛び交い、いつも笑っていた。主人は話し上手で明るい人。私のファンの方も、主人と話すと彼のファンになってしまう。」

このコメントからも、八千草薫さんが谷口千吉さんのユーモアと人柄に魅了されたことがよくわかります。

一度は手紙で別れを切り出された八千草薫さんでしたが、「会って話してみると別れられなかった」と振り返っています。

そして1957年7月、東京会館で結婚式を挙げ、晴れて夫婦となりました。

当時の八千草薫さんは26歳、谷口千吉さんは45歳。年の差は19歳でした。

谷口千吉の結婚歴

谷口千吉さんは八千草薫さんとの結婚が3度目でした。

回数相手婚姻期間
1回目水木洋子さん(脚本家)1938年〜1939年(スピード離婚)
2回目若山セツ子さん(女優)1949年〜1956年
3回目八千草薫さん1957年〜2007年(夫の死去まで50年)

1回目の奥さんの水木洋子さんは、「女の一生」や「ひめゆりの塔」などを手がけた当時を代表する脚本家でもありました。

2回目の奥さんの若山セツ子さんは東宝の清純派女優で、離婚後は精神的に不安定となり、1985年に55歳で亡くなっています。

略奪婚と言われた噂の真相

八千草薫さんと谷口千吉さんの結婚は、当時から「略奪婚」と噂されてきました。

この噂について整理すると、2つの見方が存在しています。

ひとつは「八千草薫さんが谷口千吉さんの当時の妻・若山セツ子さんに嫌がらせ電話をかけ続け、精神的に追い詰めて離婚させた」という説です。

もうひとつは「1956年に谷口・若山元夫妻が離婚した後に2人の交際が始まり、周囲の猛反対を押し切ってゴールインした」という説です。

実際のところ、嫌がらせ電話の噂については証拠となるものが一切存在しません。

元妻の若山セツ子さん本人が証言したという記録もなく、誰が最初に言い出したかも不明というのが実情です。

一方、谷口千吉さんの離婚と八千草薫さんとの再婚の間隔が非常に短かったこと(1956年離婚・1957年結婚)、そして当時の「お嫁さんにしたい有名人」1位という清純なイメージとのギャップが、噂を大きくふくらませた面が大きかったと考えられます。

八千草薫さん自身もこの結婚について「母親や周囲に猛反対されたが、反対を押し切って結婚した」と語っており、結婚後は約1年ほど女優としてのお仕事が干されたこともあったそうです。

「女優をやめようと思ったこともあった」と後に語っていますが、その後復帰して大女優への道を歩んでいきます。

略奪婚の噂は今も語り継がれていますが、確実な証拠はなく、噂の域を出ないものであることは念頭に置いておきたいところです。

子供がいない理由はマラリアの影響

八千草薫さんと谷口千吉さんの夫婦の間には、子供がいませんでした。

結婚会見では八千草薫さんが「子供は好きですからたくさんほしい」と語っていただけに、子供がいなかったことを残念に思った方も多かったかもしれませんね。

子供がいなかった理由としてよく言われているのが、夫・谷口千吉さんのマラリア罹患歴です。

谷口千吉さんはかつてマラリアにかかったことがあり、その影響で子供ができにくい体質になってしまったとされています。

これはあくまで伝えられている情報であり、医学的な詳細は公表されていませんが、複数の情報源でこの説が語られています。

ただ、子供がいなかったとはいえ、2人の夫婦仲は抜群に良かったことで知られています。

2人は夫婦で登山を楽しみ、犬やメダカを一緒に育てるなど、静かでも充実した日々を送っていたそうです。

谷口千吉さんは68歳で自動車免許を取得し、なんと85歳まで八千草薫さんの送り迎えをしていたというエピソードも残っています。

八千草薫さんは後に谷口千吉さんとの日常をこう振り返っています。

「今でもよく思い出すのは、主人がお風呂に入っているときの記憶です。お湯加減がいいのか、『ああ、いい気持ちだな』と何度も何度も声に出して言うのです。とても大きな声なので、リビングにいる私のところまで聞こえてきます。何か返事をしなくちゃという気になって、『それはよかったですね!』とわざわざお風呂場まで言いに行ってあげていました。」

このエピソードからも、子供がいなくても2人の間に温かくて穏やかな時間が流れていたことが伝わってきます。

夫婦の好きな言葉として「馬馬虎虎(まぁまぁふぅふぅ)」という言葉があります。

これはもともと中国の古事成語で「いい加減」などという意味ですが、八千草薫さんは「ちょうど良い加減」と解釈して大切にしていたそうです。

この言葉も谷口千吉さんの影響で好きになったものだと語っています。

子供がいないからこそ、2人だけの豊かな時間を長く楽しめたのかもしれませんね。

宝塚から銀幕へ、若い頃の活躍

八千草薫さんの若い頃といえば、何といっても宝塚歌劇団での活躍が外せません。

1947年、16歳のときに宝塚歌劇団34期生として入団した八千草薫さん。

入団時の試験成績は50人中19位でしたが、舞台ではたちまち頭角を現していきます。

入団当初は「文福茶釜」のたぬき役やカッパ役などコミカルな役柄を担当していましたが、1952年の「源氏物語」初演で可憐な若紫(紫の上の少女時代)を内外ともに見事に表現し、一躍人気を博しました。

以降は美貌と清純さを兼ね備えた娘役の第一人者として宝塚の一時代を風靡します。

宝塚在団中から東宝映画への外部出演もこなしており、当時の「お嫁さんにしたい有名人」の統計でたびたび首位に輝くほどの国民的人気を誇っていました。

映画出演では1954年の「宮本武蔵」でのお通役が特に有名で、この映画は第28回アカデミー賞で名誉賞(最優秀外国語映画)を受賞するほどの評価を得ました。

同年には日伊合作映画「蝶々夫人」にも主演。

撮影はイタリア・ローマのチネチッタで行われ、日本文化を正しく世界に伝えるという使命を持った本格的な国際映画でした。

1957年5月31日に26歳で宝塚歌劇団を退団した後は、映画・ドラマと活躍の場を広げていきます。

代表的なドラマ作品としては、家族に隠れて不倫する主婦役を演じた「岸辺のアルバム」(1977年・TBS)が特に高い評価を受け、テレビドラマ史に残る名作と称されています。

死因はすい臓がんだった

八千草薫さんは2019年10月24日午前7時45分、88歳でその生涯を閉じました。

死因はすい臓がんでした。

実は八千草薫さんの闘病は数年にわたるものでした。

時系列で整理すると次のようになります。

時期出来事
2017年春乳がんが発見される(著書で後に初告白)
2017年末すい臓がんと診断される
2018年1月すい臓がんの摘出手術(6時間に及ぶ大手術)を受ける
2019年肝臓にがんが転移しているとわかる
2019年2月9日がん闘病を公表・女優業の休業を発表
2019年5月日本生態系協会のイベントに出席(公表後初の公の場)
2019年10月24日すい臓がんのため88歳で死去

すい臓がんは症状が表に出にくく早期発見が難しいことで知られているがんです。

5年生存率はがんの中でも最悪の部類とされており、トータルでも約9%、ステージ4の場合は1.4%という厳しい数字となっています。

「大病をしたことがなかったため、病院での日々の生活もリハビリも『こういうものだ』と妙に納得して、受け入れていました」と気丈に振り返った八千草薫さんですが、その言葉には彼女らしい芯の強さが感じられます。

2019年5月にイベントへの出席時には体調も良好で、「いいお天気ですけども、昨日よりは少し涼しくなるように祈ってましたが、ダメでした」と柔らかな笑顔でおちゃめに挨拶する姿が目撃されています。

亡くなる直前まで女優として撮影に極秘参加していたとも報じられており、最後まで仕事への情熱を持ち続けた女優人生でした。

葬儀は八千草薫さんの希望により近親者のみで済まされ、お別れの会なども行われませんでした。

八千草薫の国籍についてのまとめ

  • 八千草薫さんの国籍は日本人の可能性が濃厚
  • 本名の旧姓「松田」は、大阪府にルーツを持つ日本由来の姓
  • 出身は大阪府大阪市で、大阪の小学校・高校(プール学院)に通った生粋の大阪育ち
  • 中国籍と噂された理由は、1957年映画「雪国」や1975年ドラマ「赤い疑惑」などを通じた中国での高い人気
  • 中国では「常緑樹」と称されるほど愛されたが、あくまで日本人女優としての評価
  • 2019年の訃報が中国のニュースでも大きく取り上げられたことも噂の遠因
  • 夫は映画監督・谷口千吉さんで、1957年に結婚し50年間連れ添った
  • 谷口千吉さんは黒澤明と親友だった映画監督で、「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と呼ばれた
  • 結婚当時、谷口千吉さんは45歳・3度目の結婚で、八千草薫さんとの年齢差は19歳
  • 略奪婚の噂はあるが、具体的な証拠は一切存在しない
  • 子供がいなかった理由はマラリア罹患歴による夫の体質とされる
  • 夫が68歳で免許取得し85歳まで送り迎えをするほどのおしどり夫婦として知られた
  • 1947年に宝塚歌劇団34期生として入団し、清純派娘役の第一人者として活躍
  • 映画「宮本武蔵」でお通を演じ、同作はアカデミー賞名誉賞を受賞
  • 死因はすい臓がんで、2019年10月24日に88歳で死去

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