小松政夫さんの国籍について調べてみたら、意外なことが分かりました。
プロフィールにも訃報にも、国籍に触れた記述がひとつも無いんですね。
そのかわり、本名や生まれた町、実家の家業まで、出自の記録はしっかり残っていました。この記事では、確認できたことと確認できなかったことを分けて整理していきます。
・小松政夫の国籍について公表されている情報と、確認できなかったこと
・本名・松崎雅臣と、生まれ育った博多・瓦町での暮らし
・実家の菓子店と7人兄妹の家族、そして死因や妻・息子の情報
小松政夫の国籍と公表されている出自
「小松政夫さんの国籍って、どうなっているんだろう?」と気になって検索した方に向けて、まずは公表されている情報だけを並べて整理していきますね。
推測で埋めるのではなく、確認できたことと確認できなかったことを、きちんと分けて書いていきます。
国籍を示す公的資料は確認できず
最初に、この記事でいちばん大事なところをお伝えします。
小松政夫さんの国籍を明示した一次情報は、確認できませんでした。
ここでいう一次情報とは、本人の発言、所属事務所や公式プロフィールの記載、公的な記録のことです。
Wikipediaにも、オリコンやWEBザテレビジョンといったプロフィール系のページにも、国籍の欄そのものがありません。
新聞各紙が2020年に報じた訃報でも、紹介されているのは「福岡県出身のコメディアン」という肩書きだけで、国籍には触れられていないんですね。
これ、少し意外かもしれません。
ただ、芸能人のプロフィールというのは出身地までは載せても、国籍まで書く欄はそもそも用意されていないことがほとんどなんです。
なので「載っていない=何かを隠している」ということではなく、そもそも公表される種類の情報ではない、というのが実際のところです。
この記事では以降、国籍そのものを断定するのではなく、公表されている出自の記録を一つずつ確認していく形で進めます。
本名は松崎雅臣という日本の名前
まず確認できるのが本名です。
小松政夫さんの本名は松崎雅臣(まつざき まさおみ)さん。
Wikipediaをはじめ、複数のプロフィール系メディアで一致している情報です。
「小松政夫」は芸名で、本名とはまったく別の名前なんですね。
ここ、検索されている理由のひとつかもしれません。
本名と芸名が違うと、それだけで「本当の名前は何だろう」「出自はどうなんだろう」という方向に関心が向きやすいですから。
芸名になった経緯
この芸名、自分で考えたものではありません。
小松政夫さんが芸能界に入るきっかけとなったのが、コメディアン・植木等さんの付き人兼運転手という仕事でした。
「小松政夫」という名前を付けたのは、その植木等さんです。
デビュー番組となった『シャボン玉ホリデー』のレギュラーに、俳優の松崎真さんという方がいて、本名の「松崎」では紛らわしかった、という事情も伝えられています。
つまり本名から離れた名前になったのは、番組の都合という現場の事情だったわけですね。
出自にまつわる何かがあって名前を変えた、という話ではありません。
生まれは福岡市瓦町・現在の博多区上川端町
出生地についても、記録がはっきり残っています。
小松政夫さんが生まれたのは1942年1月10日、福岡県福岡市瓦町。
現在の地名でいうと博多区上川端町にあたる場所です。
博多の中心部で、櫛田神社のすぐ前あたり。
子ども時代は、この櫛田神社の前や、鐘紡(カネボウ)福岡工場の近くで過ごしたと記録されています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 松崎雅臣(まつざき まさおみ) |
| 生年月日 | 1942年1月10日 |
| 出生地 | 福岡県福岡市瓦町(現・博多区上川端町) |
| 出身校 | 福岡市立博多第二中学校 → 福岡県立福岡高等学校 定時制課程 |
| 没年月日 | 2020年12月7日(78歳) |
出身校についてひとつだけ補足しておくと、福岡高校の定時制課程について「中退」と記すソースと「卒業」と記すソースがあり、ここは記事によって食い違っています。
どちらが正しいかを断定できる資料は確認できませんでしたので、両方の記載があるとだけお伝えしておきますね。
実家は博多で菓子店を営む家だった
実家の話も、出自を知るうえでは大きな手がかりになります。
小松政夫さんの父親は、博多の繁華街で菓子店を営む実業家でした。
もともとは料理学校の先生をしていて、そこから実業家に転身し、戦後に菓子店とビルを経営するようになった、と伝えられています。
当時としては、かなり裕福な家庭だったようです。
配給を求めて長い列ができていた時代に、朝食でハムエッグやトースト、チョコレートが出てくる家だった、という話が残っています。
……これ、終戦直後の日本と考えると、相当なものですよね。
7人兄妹の5番目として育った
家族構成についても記録があります。
小松政夫さんは7人兄妹の5番目。
大所帯の真ん中あたりで育った、ということになります。
ただ、この裕福な暮らしは長くは続きませんでした。
小松政夫さんが中学生のとき、13歳のころに父親が病気で亡くなってしまいます。
そのあと多額の借金が判明し、一家の生活は一変しました。
六畳と四畳半の二間、共同トイレに共同炊事場というアパートに、家族6人で暮らすことになったと語られています。
正直、この落差は読んでいて胸が痛くなります。
高校に通いながら、父親が生前から懇意にしていた博多の老舗菓子店・石村萬盛堂で働き、家計を支えていたそうです。
つまり実家も、働いた先も、支えた家族も、すべて博多の街の中にあったということですね。
海外ルーツや帰化を報じた記事は見当たらない
ここまで見てきたとおり、公表されている記録は生まれた場所も家族も、すべて福岡・博多に集まっています。
そのうえで、逆側の情報についても確認しました。
海外にルーツがある、あるいは帰化したといった内容を報じた大手メディアの記事は、確認できませんでした。
訃報を報じた新聞各紙にも、そうした記述はありません。
検索結果の上位に並ぶページを見ても、国籍そのものを話題にしている記事は見当たりませんでした。
ただし、ここは注意が必要なところです。
「報じられていない」ことは、「事実として否定された」ことと同じではありません。
公的な記録が公開されていない以上、この記事で国籍を断定することはできません。
言えるのは、公表されている出自の記録が福岡・博多で一貫していること、そして海外ルーツを示す情報は確認できなかったこと。
この2つだけです。
博多祇園山笠に毎年参加していた
地元との結びつきを示すエピソードとして、もうひとつ確認できているものがあります。
小松政夫さんは、博多の夏の祭り博多祇園山笠(毎年7月1日〜15日)に毎年参加していました。
しかも、この期間は仕事を入れないようにしていたそうです。
芸能の仕事をしている方が、毎年半月まるごと予定を空けるというのは、なかなかできることではありません。
……なんか、いいですよね。
生まれた町の祭りに、東京で活躍するようになってからも毎年帰っていた。
出自について何かを語った記録は残っていませんが、地元とのつながりの深さは、この習慣によく表れていると思います。
小松政夫の国籍を調べる人向けの関連情報
ここからは、小松政夫さんについて一緒に検索されることの多い話題をまとめていきます。
死因や家族、コンビを組んでいた伊東四朗さんとの活躍まで、気になるところを順番に見ていきましょう。
死因は肝細胞がんだった
小松政夫さんが亡くなったのは2020年12月7日、78歳のときでした。
死因は肝細胞がんと報じられています。
がんが判明したのは2019年11月ごろとされていますので、闘病期間はおよそ1年ということになります。
訃報は東京新聞や中国新聞をはじめ各紙が速報で伝え、多くの人が驚きをもって受け止めました。
亡くなる直前まで仕事をしていた方でしたから、余計にそう感じられたのだと思います。
妻・朋子との出会いは新宿の居酒屋
結婚についても記録があります。
小松政夫さんが結婚したのは1976年、34歳のとき。
お相手は朋子さんという一般女性です。
出会いの場所は、新宿の居酒屋「どん底」。
小松政夫さんのほうから声をかけたのが、きっかけだったと語られています。
芸能人の馴れ初めとしては、かなり庶民的というか、身近な感じがしますよね。
朋子さんは、死去から1年後に週刊誌のインタビューに応じ、最後の言葉や夫婦のやりとりを語っています。
そこで語られているのは、夫を立てるだけの妻ではなく、叱るときはきっちり叱る関係性でした。
40年以上連れ添った夫婦の距離感が伝わってくる内容です。
息子はバンドのドラマーとして活動
お子さんについても情報があります。
小松政夫さんには1979年生まれの息子・将高さんがいるとされています。
職業はバンドのドラマー。
親子そろって表現の世界に進んだ、ということになりますね。
ただし、この情報については確認できたソースが限られていましたので、そのまま断定はしません。
娘さんについても検索されることが多いようですが、お子さんが何人いるのかを明示した公表情報は確認できませんでした。
伊東四朗とのコンビで電線音頭がヒット
小松政夫さんといえば、やはり伊東四朗さんとのコンビです。
1970年代、バラエティ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』で数々のコントを披露しました。
なかでも大きかったのが、1976年の「電線音頭」。
伊東四朗さん演じる電線マンと組んだこの曲は、テレビから飛び出して全国的なブームになりました。
さらに1978年には「しらけ鳥音頭」がヒット。
全国の子どもたちが食卓のテーブルの上で踊り出してしまい、親から苦情が来るほどだったという話が残っています。
……テーブルの上で踊る子どもが全国にいた、というのがすごいですよね。
それだけ、テレビの真ん中にいた人だったということです。
代表的なギャグは「どーかひとつ」
ギャグでも数多くの流行語を生みました。
代表的なものを挙げると、こんな感じです。
- 「どーかひとつ」
- 「なが〜い目で見てください」
- 「表彰状、あんたはエライ! 以下同文」
- 淀川長治さんのものまね
面白いのは、小松政夫さんのギャグの多くが、実際に出会った人物をもとにして作られていることです。
架空のキャラクターを一から作るのではなく、街や仕事先で見た人の話し方や仕草を膨らませていく。
子どものころ、自宅前の焼け野原に来ていたテキヤの口上を覚えて、学校で「まさ坊の演芸会」を開いていたという話が残っていますが、あの芸風の原点はそこにあるのかもしれません。
博多の街で見聞きしたものが、そのまま芸の土台になっていたということですね。
最後の出演はNHKドラマ「すぐ死ぬんだから」
「現在」と検索する方も多いのですが、小松政夫さんは2020年に亡くなっていますので、その後の活動はありません。
最後の出演作となったのは、NHKのドラマ『すぐ死ぬんだから』でした。
芸能界に入ったのは1964年1月、22歳のとき。
植木等さんの付き人兼運転手の募集に、約600人の応募者の中から選ばれたのが始まりでした。
その植木等さんから「お父さんを早くに亡くされたそうだね。これからは私を父親と思えばいい」と声をかけられたことを、小松政夫さんは生涯にわたって語り続けています。
13歳で父を亡くした人が、20代でもう一人の父親と出会った。
……なんというか、じんわりしますよね。
付き人を3年10か月務めたのち、渡辺プロダクションの社長の推薦でデビュー。
そこから56年にわたって、テレビの第一線に立ち続けた人でした。
小松政夫の国籍のまとめ
- 小松政夫の国籍を明示した一次情報は確認できなかった
- 本人が国籍について語った記録も見当たらない
- プロフィール系のページには、そもそも国籍の欄が存在しない
- 訃報を報じた新聞各紙も「福岡県出身」とだけ紹介している
- 本名は松崎雅臣で、複数のソースで一致している
- 芸名「小松政夫」を付けたのは植木等
- 芸名になったのは、番組レギュラーに俳優・松崎真がいて紛らわしかったためとされる
- 生まれは1942年1月10日、福岡県福岡市瓦町(現・博多区上川端町)
- 子ども時代は櫛田神社の前や鐘紡福岡工場の近くで育った
- 実家は博多で菓子店を営み、父は料理学校の教師から転身した実業家
- 7人兄妹の5番目として生まれた
- 13歳ごろに父が病死し、その後は一家が困窮した
- 高校に通いながら博多の老舗菓子店・石村萬盛堂で働き家計を支えた
- 海外ルーツや帰化を報じた大手メディアの記事は確認できなかった
- 博多祇園山笠に毎年参加し、その期間は仕事を入れなかった


