柳ジョージさんの国籍について、公式プロフィールでどこまで確認できるのかを調べてみました。
結論から言うと国籍を明記した資料は見つからなかったのですが、本名や生い立ちをたどっていくと、見えてくるものがあります。
実は、外国人のように受け取られてきたあの芸名にこそ、日本の家庭で育った人だという手がかりが隠れているんです。
・柳ジョージの国籍が公式プロフィールや公的資料でどこまで確認できるのか
・本名の柳譲治や両親の来歴から見える出自
・「ジョージ」という芸名から外国人説が生まれた3つの背景
柳ジョージの国籍と外国人説の根拠を検証
柳ジョージさんの国籍について、公式プロフィールや辞事典でどこまで確認できるのかを整理しました。
そのうえで、なぜ「外国人なのでは」という見方が生まれたのかも、順番に見ていきますね。
国籍を示す公的資料は確認できず
最初に、いちばん大事なところからお伝えします。
柳ジョージさんの国籍を明記した公式プロフィールや公的な記録は、確認できませんでした。
所属レーベルであるワーナーミュージック・ジャパンの公式プロフィールにも、ORICON のプロフィールページにも、コトバンクの人物項目にも、国籍という項目そのものが存在しません。
これは柳ジョージさんに限った話ではなく、日本のミュージシャンのプロフィールでは国籍欄が置かれないことのほうが普通です。
つまり「書かれていない」ことと「隠している」ことは、まったく別の話なんですよね。
ここ、混同されやすいところなので先に押さえておきたいポイントです。
では、確認できることは何もないのかというと、そんなことはありません。
公式プロフィールや辞事典に載っている情報を並べていくと、生まれた場所・本名・両親の来歴・通った学校まで、かなり具体的に追えます。
ワーナーミュージック・ジャパンの公式プロフィールでは、1948年1月30日に神奈川県横浜市で生まれたと記されています。
Wikipedia ではさらに細かく横浜市南区とされていて、コトバンクも神奈川県出身で一致しています。
生年月日についても、公式・ORICON・コトバンクの3つが1948年1月30日で完全に一致しました。
こうした情報を積み上げていくと、公的資料で断定はできないものの、日本国籍である可能性が高いという見方になります。
ただ、これはあくまで公表されている材料からの推測であって、公的な確認が取れたという話ではありません。
そこは正直にお伝えしておきますね。
プロフィールの取得時に見つかった表記の食い違い
今回いくつかのプロフィールページを確認した際、ORICON のページから出身地を「兵庫県神戸市」と読み取れる箇所がありました。
ただ、これは文字コードの表示崩れによる誤読の可能性が高いと考えています。
というのも、レーベル公式・Wikipedia・コトバンクの3つがそろって神奈川県としているためです。
複数のソースが一致している側を採用し、この記事では出身地を神奈川県横浜市として扱います。
本名は柳譲治という日本名
国籍を考えるうえで、いちばん分かりやすい手がかりが本名です。
柳ジョージさんの本名は、柳譲治(やなぎ じょうじ)さんです。
これは Wikipedia とコトバンクの両方に記載があり、複数のソースで一致している確定情報にあたります。
姓も名も、ごく一般的な日本の名前ですよね。
英語表記としては George Yanagi とされていますが、これは海外向けの表記であって、外国名を別に持っているという意味ではありません。
日本人ミュージシャンが海外リリースやクレジット表記でローマ字の芸名を使うのは、ごく普通のことです。
そして「ジョージ」という芸名の響きと、本名の「譲治(じょうじ)」の読みが、非常に近いことにお気づきでしょうか。
え、そうだったの!?と思った方も多いんじゃないかなと思います。
ただし、ここは慎重に書いておきます。
「ジョージ」という芸名が本名の譲治に由来すると本人が語った一次情報は、今回は確認できませんでした。
音が重なっていることは事実ですが、そこから命名の理由を断定することはできません。
面白い符合として受け止めておくのが正確な扱いかなと思います。
| 項目 | 内容 | 確認できたソース |
|---|---|---|
| 本名 | 柳 譲治(やなぎ じょうじ) | Wikipedia、コトバンク |
| 芸名 | 柳 ジョージ | 公式プロフィールほか |
| 英語表記 | George Yanagi | Wikipedia |
| 生年月日 | 1948年1月30日 | 公式、ORICON、コトバンク |
| 出身地 | 神奈川県横浜市南区 | 公式、Wikipedia、コトバンク |
両親は広島市内で被爆した日本の家庭
ご家族についても、公表されている範囲で分かっていることがあります。
柳ジョージさんのご両親は、戦時中に広島市内で被爆されています。
そして終戦後、お父さんは日清製粉に勤めるサラリーマンになりました。
柳ジョージさんご本人は、自分の家庭を「典型的な中流階級」と表現しています。
……この一行、あらためて読むと重みがありますよね。
戦時中に広島市内にいたということは、ご両親が当時その土地で生活していた日本の家庭だったということです。
もちろん、これだけで国籍が確定するわけではありません。
ただ、少なくとも「外国から来た家庭ではない」という文脈は、この記述から素直に読み取れると思います。
こうした自身の生い立ちについては、柳ジョージさんが1979年に小学館から出した著書『敗者復活戦』でも語られています。
取材と構成を担当したのは、のちに「江夏の21球」で知られることになる山際淳司さんでした。
横浜のホテルにこもりきりでインタビューを受けたそうで、1983年には集英社文庫から『ランナウェイ 敗者復活戦』として加筆版も出ています。
文庫版には子ども時代の写真も新たに掲載されました。
ご自身の生い立ちを、ここまで早い段階で本にしているミュージシャンは、実はそれほど多くありません。
学歴は横浜の蒔田中学校から日本大学法学部へ
通った学校も、国籍を考えるうえでのひとつの材料になります。
横浜市立蒔田中学校から日本大学藤沢高等学校へ進み、日本大学法学部を卒業されています。
公立中学校から日本の高校、そして日本の大学へと、教育課程がすべて日本国内で完結していることが分かりますね。
ミュージシャンというイメージからすると、法学部というのは少し意外に感じませんか。
しかも、途中で音楽に本腰を入れながらも、きちんと卒業まで行き着いているんです。
学生運動の時代を「ノンポリ」で過ごした大学時代
柳ジョージさんが日本大学に在学していたのは、全共闘による学生運動がもっとも激しかった時期にあたります。
日本大学はその渦中にあった大学のひとつでした。
ただ、ご本人は紛争には参加しておらず、後年「自分はノンポリでした」と述懐しています。
封鎖や休講で授業が受けられない日々のなかで、クリームなどのブルースロックやニューロックにのめり込んでいったそうです。
そして在学中の1969年に、ギタリストの陳信輝さんらとブルースロックバンド「パワーハウス」を結成してプロデビューを果たします。
ちなみに、このときデビュー直前にベーシストが脱退してしまい、柳ジョージさんが急遽ベースを担当することになりました。
もともとはギタリストだったんですよね。
バンド解散後は大学に戻って勉学に励み、半年遅れで卒業しています。
なんというか、真面目な人だなと思いませんか。
外国人説が生まれたきっかけは芸名にある
ここまで見てきたとおり、柳ジョージさんの経歴に外国とのつながりを示す記述は出てきません。
では、なぜ国籍が検索されるのでしょうか。
最大の理由は、「ジョージ」というカタカナの芸名が、日本人の名前として耳になじみにくいことだと考えられます。
柳という日本の姓に、ジョージという外来の響きが続く組み合わせは、それだけで「ハーフなのかな」「帰化した人なのかな」という連想を呼びます。
実際、柳ジョージさんの名前を初めて見た人が、外国にルーツのある人だと受け取ってしまうのは自然な反応だと思います。
ただ、その連想の起点になっている芸名そのものが、本名の「譲治」と音を共有しているというのが、この話のいちばん面白いところなんですよね。
ここからは、芸名以外に外国人説を後押ししたと考えられる要素を2つ挙げていきます。
なお、以下は公表されている事実をもとにした当サイトの推測であり、外国人説の出どころを特定した報道があるわけではありません。
和製クラプトンと呼ばれた洋楽色の強さ
柳ジョージさんは、ブルースを基調とした味わい深いギタープレイで知られ、「和製クラプトン」と呼ばれることもありました。
音楽性も R&B をベースにしたもので、デビュー当時の日本の歌謡シーンからすると、かなり異端だったといわれています。
歌声も日本語の歌謡曲というより、洋楽のシンガーに近い質感です。
こうした音楽性の強さが、「この人、本当に日本人なのかな」という印象につながった可能性は十分あるかなと思います。
ちなみに、当のご本人はクラプトンをそれほど好きではなかったそうです。
30歳ごろから「好きなのはデイヴ・メイスンだ」とよく言っていたと伝えられていて、そのデイヴ・メイスンさんとは1977年ごろの初来日時に雑誌で対談し、20年後の1997年には大阪ブルーノートなど3か所で共演を果たしています。
メイスンさんは柳ジョージさんについて「いいおっちゃんですよ」と話していたそうです。
……なんか、いいですよね、この距離感。
横浜・本牧とゴールデン・カップスの記憶
もうひとつが、活動の舞台となった横浜・本牧という場所のイメージです。
1970年9月、柳ジョージさんは横浜を拠点とする「ザ・ゴールデン・カップス」にベーシストとして加入しました。
このバンドの活動拠点は、本牧のレストランバー「ゴールデン・カップ」でした。
当時の本牧は米軍の存在が色濃く残る土地で、そこから生まれた音楽は「横浜の不良音楽」として語り継がれています。
そしてゴールデン・カップスには、実際に海外にルーツを持つメンバーが在籍していました。
創設メンバーのひとりであるケネス伊東さんは、アメリカ・ハワイ州オアフ島出身の日系アメリカ人二世です。
奥さんが日本人でありながら、国籍やビザの問題で日本に長期滞在できず、就労も認められなかったと記録されています。
つまり、このバンド自体が「国籍」という言葉と結びつきやすい背景を持っていたわけです。
柳ジョージさんはその一員として活動していたので、バンドの印象が個人の出自のイメージに重なった可能性はあると思います。
なお、柳ジョージさんとゴールデン・カップスの縁はその後も続き、解散後の1973年から1974年にかけては、元メンバーのルイズルイス加部さんやデイヴ平尾さんらとバンド活動を行っています。
「柳譲治と不確定性原理」「ママリンゴ」「横浜よいどれバンド」「ニュー・ゴールデン・カップス」と、名前がめまぐるしく変わるライブ活動でした。
本名の「柳譲治」名義で活動していた時期があるというのも、この人の経歴の面白いところですね。
国籍やルーツをめぐる世間の受け止め
柳ジョージさんの国籍について、まとまった議論が起きた形跡は確認できませんでした。
これは意外に思われるかもしれませんが、根拠があります。
Google のサジェスト機能で「柳ジョージ ハーフ」と入力しても、候補が一件も返ってきません。
サジェストは実際に検索されている語をもとに作られるので、候補が出ないということは、その組み合わせで検索している人がほとんどいないということです。
一方で、「柳ジョージ」単体で検索する人が探しているのは、死因・息子・再婚・青い瞳のステラ・雨に泣いてるといった話題でした。
つまり世間の関心は、国籍そのものよりも、楽曲や晩年、ご家族のほうに向いているというのが実態です。
国籍が調べられるのは、名前を見た人がふと引っかかったときの、素朴な疑問としての検索なんだろうなと思います。
そう考えると、外国人説というほど強い噂が流布していたわけではなく、「ジョージって名前だけど日本の人だよね?」という確認に近いのかもしれません。
柳ジョージの国籍を調べる人向けの関連情報
ここからは、柳ジョージさんを検索する人が一緒に調べている話題をまとめました。
楽曲のことも、晩年のことも、まとめて確認できますよ。
死因は腎不全で63歳での死去
柳ジョージさんは2011年10月10日、腎不全のため横浜市内の病院で亡くなりました。
63歳でした。
この情報は、ワーナーミュージック・ジャパンの公式プロフィール、Wikipedia、コトバンクのいずれにも記載があり、確定情報として扱えます。
亡くなった場所が横浜市内だったというのも、生まれた土地で最期を迎えたということで、なんとも言えない気持ちになりますね。
亡くなる3年前の2008年には、再結成した「柳ジョージ&レイニーウッド」としてフジロックフェスティバルに出演しています。
最後まで現役だった人だったんだなと思います。
妻は元女優の浅野真弓
柳ジョージさんの奥さんは、元女優の浅野真弓さんです。
結婚したのは1984年でした。
この年は、東京・NYフレンドシップのイベント「ハーレム少年聖歌隊 With 柳ジョージ」を全国5大都市で開催した年でもあり、日本レコード大賞企画賞も受賞しています。
公私ともに大きな節目だったんですね。
なお、お子さんについては、最初のお子さんが生まれたときのエピソードが伝わっています。
当時、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』に感銘を受けて大ファンになっていた柳ジョージさんは、「本当は『竜馬』って名づけたかったけど、思いとどまってやめたんです」と当時のインタビューで話していたそうです。
……ちょっと笑ってしまいました。
ちなみに司馬遼太郎さんとは、山内容堂を主人公にした『酔って候』から曲が生まれた際、発売の承諾を得るために東大阪のご自宅まで直接訪ねて許可をもらっています。
サインをもらって子どものようにはしゃいでいたと、同行したスタッフが述懐しているそうですよ。
雨に泣いてる…がドラマ主題歌で大ヒット
柳ジョージさんの代表曲といえば、やはりこの曲でしょう。
1979年、萩原健一さん主演のテレビドラマ『死人狩り』のテーマ曲に使われた「雨に泣いてる…」が大ヒットしました。
R&B をベースにした音楽性は当時としては異端でしたが、ドラマとの相性が抜群だったんですね。
このヒットをきっかけに、萩原健一さんとの関係も深まっていきます。
1978年から1979年にかけての萩原さんのコンサートツアーでは、柳ジョージ&レイニーウッドがバックを務めました。
1979年に萩原さんが『夜のヒットスタジオ』で「大阪で生まれた女」を歌ったときのバックも彼らで、間奏では柳ジョージさんがギターソロを弾いています。
同じ1979年に発表された4枚目のアルバム『RAINY WOOD AVENUE』は、オリコンのアルバムチャートで初登場1位を獲得しました。
このアルバムからは「微笑の法則 〜スマイル・オン・ミー〜」がシングルカットされています。
青い瞳のステラ、1962年夏…はどんな曲か
「雨に泣いてる…」「さらばミシシッピー」と並ぶ代表曲が、「青い瞳のステラ、1962年夏…」です。
タイトルに「青い瞳」という言葉が入っていることもあって、この曲名から柳ジョージさんご自身の出自を連想する方もいるかもしれません。
ただ、ここははっきりさせておきたいところです。
この曲の作詞は水甫杜司さん、作曲は上綱克彦さんで、柳ジョージさんご本人が書いた詞ではありません。
歌詞の舞台やモデルについて説明した一次情報も、今回は確認できませんでした。
曲名やイメージから本人の生い立ちを読み取るのは、材料としては弱いということですね。
なお、作曲の上綱克彦さんは、1975年に広島でバンド活動をしていたところで柳ジョージさんと知り合い、レイニーウッド結成メンバーとなった人物です。
柳ジョージ&レイニーウッドの結成から解散まで
柳ジョージさんの名前を世に知らしめたバンドの歩みも、あらためて整理しておきます。
結成は1975年、デビューは1978年のアルバム『TIME IN CHANGES』でした。
広島でバンド活動をしていた上綱克彦さん、石井清登さん、宮田和昭さん、四ツ田ヨシヒロさんらと知り合ったことがきっかけです。
のちに宮田さんに代わってミッキー山本さん、サックスの鈴木明男さんが加入しました。
バンド名の「レイニーウッド」は、柳ジョージさんがロンドンのハイドパークで見た、霧に煙る森から名付けたと伝えられています。
雨と森。
……この人の音楽そのものみたいな名前ですよね。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1975年 | 柳ジョージ&レイニーウッド結成 |
| 1978年 | アルバム『TIME IN CHANGES』でデビュー |
| 1979年 | 「雨に泣いてる…」が大ヒット、『RAINY WOOD AVENUE』がオリコン1位 |
| 1980年12月 | 日本武道館で初のコンサート |
| 1981年末 | 日本武道館で解散 |
| 2005年4月 | 「24年目の祭り」と題して再結成 |
| 2008年7月 | フジロックフェスティバルに出演 |
解散後はソロアーティストとして活動を続け、1982年12月には全国5か所で、憧れの存在だったレイ・チャールズさんとジョイントコンサートを行っています。
食事の際に何が食べたいかと聞くと「何でもいいけど、肉がいい」と答え、それから「天ぷらが好きだ」とも言っていたそうです。
当時発売されたばかりのウォークマンをプレゼントしたら、とても喜んでいたとも伝えられています。
所ジョージの芸名の由来になった人物
最後に、意外と知られていない話をひとつ。
所ジョージさんの芸名は、「所沢の柳ジョージ」から来ているとされています。
これには正直、驚きました。
「ジョージ」というカタカナの芸名から外国人説が生まれた人が、別のタレントさんの芸名の由来にもなっていたわけです。
つまり「ジョージ」という響きは、当時それだけ強い個性として受け止められていたということなんでしょうね。
なお、この情報は Wikipedia に記載があるもので、今回は他のソースでの裏付けまでは取れていません。
そのつもりで受け取っていただければと思います。
このほか、柳ジョージさんの人物像としては、ザ・ドリフターズの志村けんさんと仲が良かったことも知られています。
志村さんがレギュラー出演していた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内のコーナー『THE DETECTIVE STORY』のオープニングテーマを担当したのは、志村さんが直接オファーしたからでした。
志村さんはブログで「気持ちよく引き受けてくれた」と綴っていたそうです。
また、かなりの飛行機恐怖症だったことでも知られ、「あんな大きな鉄のかたまりが、空中に浮かぶことが信じられない」と発言するほどでした。
東北でのコンサートでは、メンバー全員が飛行機で帰るなか、ひとりだけ新幹線で帰ることもあったといいます。
大変な読書家でもあり、1990年のツアーパンフレットに掲載された膨大な蔵書リストは、9割近くを歴史・時代小説が占めていたそうですよ。
柳ジョージの国籍のまとめ
- 柳ジョージの国籍を明記した公式プロフィールや公的資料は確認できなかった
- ワーナーミュージック・ジャパン公式・ORICON・コトバンクのいずれにも国籍欄がない
- 公表情報を積み上げると日本国籍である可能性が高いとみられる
- 本名は柳譲治(やなぎ じょうじ)で、姓名ともに日本の名前
- 英語表記は George Yanagi だが、これは海外向けの表記
- 芸名のジョージと本名の譲治は音が近いが、由来を語った一次情報は確認できず
- 生年月日は1948年1月30日で、公式・ORICON・コトバンクの3ソースが一致
- 出身地は神奈川県横浜市南区で、複数ソースが一致
- 両親は戦時中に広島市内で被爆し、父は戦後に日清製粉勤務のサラリーマンだった
- 本人は自身の家庭を「典型的な中流階級」と表現している
- 学歴は横浜市立蒔田中学校、日本大学藤沢高等学校、日本大学法学部
- 外国人説の背景には、カタカナの芸名・ブルースを基調とした洋楽色・本牧という活動拠点があるとみられる
- ゴールデン・カップスにはハワイ出身の日系アメリカ人二世ケネス伊東が在籍していた
- 「柳ジョージ ハーフ」ではGoogleサジェストの候補が出ず、噂として広く流布した形跡はない
- 2011年10月10日、腎不全のため横浜市内の病院で死去、63歳没


