吉川晃司の実家は広島の旅館!被爆二世として生まれた知られざる生い立ち

吉川晃司の実家は広島の旅館!被爆二世として生まれた知られざる生い立ち

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吉川晃司さんの実家といえば、広島の歴史と深く結びついた「吉川旅館」の存在が語られます。

祖母が原爆投下の1ヶ月前に旅館を手放し疎開したことで命をつないだ——その偶然の連鎖が、吉川さんをこの世に生み出したのです。

本記事では、実家の旅館や父・正俊さんの波乱の人生、被爆二世としての生い立ち、家族構成や家系図の噂まで、吉川晃司さんのルーツを徹底的にまとめました。

この記事を読むとわかること
・吉川晃司の実家「吉川旅館」の場所と原爆との関係
・父・吉川正俊の職業と被爆二世になった経緯
・家族構成・家系図・修道高校での水球エピソード

吉川晃司の実家は広島の旅館!生い立ちや家族を調査

吉川晃司さんの実家には、広島の歴史と深く結びついた数多くのエピソードが詰まっています。実家の旅館や被爆二世としての生い立ち、そして家族のことを詳しく見ていきましょう。

実家は広島原爆ドーム近くの料亭「吉川旅館」だった

吉川晃司さんの実家といえば、まず頭に浮かぶのが「吉川旅館」の存在です。

吉川さんの祖父母は、現在広島市の中心部に位置する中島地区という当時の繁華街で、「吉川旅館」という料亭を経営していました。

中島地区は中国地方でも屈指の賑わいを見せる商業エリアで、当時は6町に1300世帯、約4400人もの人が暮らしていたといわれています。

その規模からわかるとおり、吉川旅館が営まれていたのは、広島の中心部でも特ににぎやかで活気あふれる場所でした。

吉川晃司さんのお父さんも、この吉川旅館で生まれ育ったということです。

現在、その中島地区があった場所は平和記念公園・原爆ドームとして世界遺産にも登録されています。

かつてそこに人々の生活があり、家族の笑顔があったことを考えると、なんとも複雑な気持ちになりますよね。

原爆資料館には当時の写真なども展示されており、中には「吉川旅館」の写真や広告も残っています。

また広島県立広島商業高等学校の同窓会誌にも「吉川旅館」の広告が掲載されており、地元に根付いた老舗の旅館として知られていたことがうかがえます。

吉川晃司さんの実家は、広島原爆ドームのすぐそばで料亭「吉川旅館」を営んでいた由緒ある家系です。

原爆投下1ヶ月前に旅館を手放し疎開して難を逃れた

1945年8月6日、広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。

中島地区にあった吉川旅館も、原爆の爆心地に極めて近い場所にありました。

しかし、吉川晃司さんの祖母は、戦況が悪化するなかでいち早く旅館を手放すという決断を下していたのです。

原爆投下の1ヶ月前、祖母は旅館を譲り、家族とともに疎開していました。

この決断がなければ、祖母もお父さんも原爆の直撃を受けていた可能性が高く、吉川晃司さんはこの世に生まれていなかったかもしれません。

「もし旅館を譲っていなかったら…」と思うと、歴史の偶然というものがいかに大きな意味を持つかを痛感しますよね。

2017年8月7日に放送されたNNNドキュメント「4400人が暮らした町〜吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園」では、吉川晃司さん本人がかつて実家のあった場所をたどる旅に出ています。

番組の中で吉川さんは、「外国の人たちなど多くの人に、この場所に街があったということを知ってもらいたかった」と語っています。

さらに核兵器禁止条約に日本が不参加であることへの疑問も率直に口にし、「あんなモンスターに多くの命を奪われることは絶対あってはならない」とも発言しています。

一歩間違えれば消えていたかもしれない家族の歴史が、吉川さんの平和への思いの原点になっているのです。

父・吉川正俊は大部屋俳優から転職を繰り返した

吉川晃司さんのお父さんの名前は吉川正俊(きっかわ まさとし)さんです。

正俊さんは若い頃、映画の聖地として知られる京都・太秦で大部屋俳優として活動していました。

吉川晃司さん自身が俳優としても活躍していることを考えると、お父さんも俳優の道を志していたというのはとても興味深いですよね。

しかし、家業である旅館を継ぐために俳優を諦め、板前の道へと転身したといわれています。

ところがその後、お店が火事で全焼してしまい廃業を余儀なくされました。

その後は喫茶店の経営やタクシー運転手、さらに管理職など、さまざまな仕事を経験されたそうです。

芸能界入りに猛反対した父とのエピソード

吉川晃司さんが修道高校を中退して芸能界の道に進もうとしたとき、お父さんは猛烈に反対しました。

そのときのお父さんのセリフがこちらです。

「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京で猿になるのか。」

……なかなか手厳しい一言ですよね(笑)。

自らも若い頃に俳優という夢を持ちながら諦めた経験があるお父さんだからこそ、芸能界の厳しさを誰よりも知っていたのかもしれません。

しかし吉川さんは「いつか自分で動いてやる」と決意を表明し、見事に父を説き伏せて上京。

その後、日本を代表するロックスターへと成長したのですから、最終的にはお父さんも息子の決断を誇りに思ったのではないでしょうか。

波乱万丈な経歴を持つ父・正俊さんの生き様が、吉川晃司さんのぶれない芯の強さに影響しているのかもしれません。

父の入市被爆により被爆二世として生まれた

祖母や父は原爆投下前に疎開していたのですが、お父さんの吉川正俊さんは1945年8月6日の原爆投下直後に広島市内へと戻ってきたといわれています。

正俊さん自身のコメントとして「一度疎開したが8月頃には戻ってきた」という証言が残っており、この入市により「入市被爆」として被爆が認定されています。

入市被爆とは、原爆投下後に市内へ入り、残留放射線などの影響を受けることを指します。

爆心地に近い場所での直接被爆ではありませんが、放射能汚染は確実に体に影響を与えるものです。

このため、吉川晃司さんは被爆二世として生まれ育ちました。

吉川さん自身もこのことを公言しており、「被爆二世である」という事実が、彼の平和への思いを形成する上で大きな役割を果たしています。

先述のNNNドキュメントでの発言や、核兵器禁止条約への言及からも、その思いの深さが伝わってきます。

個人的に、この背景を知ってから吉川晃司さんの音楽や発言を聞くと、また違った重みを感じるようになりました。

吉川晃司さんが被爆二世であることは、彼の平和活動や歌のメッセージと切り離せない、大切な生い立ちの一部なのです。

実家は金持ちだったのか?経済状況を検証

「吉川晃司さんの実家は金持ちなの?」という疑問を持つ方も多いようです。

結論からいうと、戦前は旅館を営む経営者一家として一定の資産があったと思われますが、戦後は決して裕福とはいえない状況だったようです。

中島地区のような広島市中心部の一等地で旅館を経営していたわけですから、戦前の吉川家は地域でも有名な商家だったと考えられます。

しかし1945年の原爆投下で中島地区は壊滅的な被害を受け、旅館自体はすでに手放していたとはいえ、土地や財産のほとんどを失ったとみられます。

その後のお父さんの職歴を見てみると、俳優→板前→(火事で廃業)→喫茶店経営→タクシー運転手→管理職、という流れです。

さまざまな仕事を転々とされているところから、戦後は経済的に決して安定していたとはいいづらい時期もあったのではないでしょうか。

ただし、吉川晃司さんは名門・修道中学校に合格して進学していることから、教育に対する投資は惜しまない家庭環境だったことがうかがえます。

修道中学は広島県内最難関クラスの中高一貫校で、中学受験には毎年1000名前後が挑みます。

高い学力を要求される名門校への進学ができたということは、勉強面でのサポートはしっかりされていた家庭だったといえそうです。

総合的に見ると、吉川晃司さんの実家は「超お金持ち」ではなく、戦後の混乱を乗り越えながらも子どもの教育を大切にした堅実な家庭だったと考えられます。

吉川晃司実家を調べる人向けの関連情報

実家のことを調べていると、吉川さんの家族構成や学生時代、プライベートな結婚事情まで気になってきますよね。ここではそのあたりをまとめて解説します。

家族構成は父・母・姉・本人の4人家族

吉川晃司さんの実家の家族構成は、お父さん・お母さん・姉・吉川晃司さん本人の4人家族です。

お父さんについては先述の通り、吉川正俊さんという名前で、元大部屋俳優→板前→喫茶店経営など多彩なキャリアを歩んだ方です。

お母さんについては、残念ながら詳しい情報が公開されていません。

吉川さんは私生活をあまり公にしない方なので、お母さんについてもプライバシーを守っているのでしょう。

名前・年齢・職業などはいずれも不明で、一般の方とされています。

お姉さんについても同様に詳細は不明ですが、1人いることは複数の情報源で確認されています。

このお姉さんには、有名なエピソードがあります。

吉川晃司さんが1980年代に紅白歌合戦に白組として出場した際、なんと真っ赤な衣装で登場し、シャンパンを振りまきながらギターに火をつけ、あげくそれをたたき割るというパフォーマンスを披露してしまいました。

この「事件」によりNHKへの出入り禁止になってしまった吉川さんのもとに、お姉さんから電話が来たそうです。

そのセリフがこちら。「アンタ、兄弟の縁切るからね!」

……広島の方らしい、歯切れのいいひと言ですよね(笑)。

ただ、その後は普通に仲良くされているとのことで、姉弟のやりとりが目に浮かんで思わず笑顔になるエピソードです。

吉川晃司さんの家族は全員が芯のまっすぐな、いかにも広島らしい気質の方々のようです。

家系図をたどると吉川元春の末裔という説も

吉川晃司さんの苗字「吉川(きっかわ)」と出身地・広島県の関係から、戦国武将・吉川元春の末裔ではないかという説があります。

吉川元春とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、「毛利の知将」として名高い毛利元就の次男です。

もともとは「毛利元春」と名乗っていましたが、安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を継いで「吉川元春」となりました。

吉川元春はその後、西日本の広大なエリアを治めた毛利家の中でも特に重要な役割を果たした武将として知られています。

吉川元春の子・吉川広家も関ヶ原の戦いなどで知られる有名な武将です。

吉川晃司さんの出身地・広島県安芸郡は、まさに吉川氏が活動した地域と重なっています。

もっとも、これはあくまで「噂」レベルの話であり、吉川晃司さん自身が家系図をもとに「吉川元春の子孫です」と公言しているわけではありません。

現時点では、具体的な家系図などで確認される情報は出ていないのが実情です。

ただ、「吉川」という姓が広島では由緒ある名前であることを考えると、何らかのゆかりはある可能性は否定できません。

吉川晃司さんが吉川元春の末裔かどうかは未確認ですが、同じ安芸の地で受け継がれてきた「吉川」の血を感じさせる、力強い生き様は確かです。

修道高校で水球の全日本最優秀選手に2年連続輝いた

吉川晃司さんは、広島が誇る名門中高一貫校・修道中学校に進学しています。

修道中学の受験を決めた理由がまた面白くて、「制服の袖の部分に1本の白線があり、それがカッコよかったから」というのです。

……なんというか、この感性こそがロックスターたる所以かもしれないですね(笑)。

修道中・高等学校は東大・京都大・早慶といった難関大学への合格実績も高い進学校で、毎年1000名前後が中学受験に挑むほどの人気校です。

そんな吉川さんは、修道高校時代に水球と出会います。

もともとはサッカーをやっていたそうですが、半ば強引に水球部に入れられたのだとか。

ところがこれがとんでもない才能の開花につながりました。

世界ジュニア水球選手権大会の日本代表に選ばれ、2年連続で全日本高校最優秀選手に輝いたのです。

最年少日本代表としてイタリアやエジプトへの遠征にも参加するほどのトップアスリートとなり、夏場は1日14時間プールに入ることもあったといいます。

海外の選手と対戦した際のコメントも残っていて、「外国には100キロの選手がざらにいる。前田日明さんを背負って水の上で受けるみたいな感じで、想像を超えてましたよ」と語っています。

あの親友・前田日明さんを引き合いに出すあたり、いかにもという感じですよね。

高校時代の吉川晃司さんは、誰もがその才能を認める水球のスーパースターでした。

水球の慶應特待生の道を断り高校を中退した

水球での実績が認められた吉川晃司さんには、慶應義塾大学から水球の特待生として勧誘が来たといわれています。

全日本最優秀選手2年連続という実績があれば、スポーツ推薦で日本トップレベルの大学へ進めるのも当然かもしれません。

しかし吉川さんは、その誘いを断りました。

転機は高校2年生のときに訪れます。

佐野元春さんのコンサートを見て、「これだ」と衝撃を受けたのです。

仲間と組んでいたロックバンド「Eight City’s Fish Band(通称:はまちバンド)」でボーカルを担当していた吉川さんは、すでにアマチュアながらホールや講堂を満員にするほどの人気を誇っていました。

その才能を自分でも確信していたのでしょう。

吉川さんは渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」という手紙を自ら書いて売り込みます。

この売り込みが成功し、渡辺プロのスタッフが吉川さんのもとへ視察に訪れ、オーディションを経てプロダクションとの契約が成立。

本来は高校卒業後にデビューする予定でしたが、吉川さん本人が「今すぐデビューしたい」と強く主張し、修道高校2年次に中退して上京しました。

教師・両親・周囲からの猛反対を押し切っての決断でしたが、1984年2月1日にシングル「モニカ」でデビューし、いきなり大ブレイク。

……この行動力、やっぱり吉川さんは昔からすごい人だったんですね。

水球でも音楽でも全力で突き進む吉川さんの姿は、修道高校中退という決断にも表れています。

嫁は元看護師で子供は長女1人の3人家族

吉川晃司さんは、2011年6月1日に一般女性と入籍しています。

結婚を発表したのは5月31日で、吉川さんが所属するファンクラブを通じてのアナウンスでした。

お相手の女性は元看護師で富山県魚津市出身の方で、吉川晃司さんより2歳年下とされています。

2人の出会いは、2008年に公開された映画『チーム・バチスタの栄光』の撮影現場。

女性は医療技術スタッフとして参加しており、そこで吉川さんと知り合ったといわれています。

その後交際を始め、2009年には未婚のまま北陸の実家で長女を出産。

この結婚発表と同時に、すでに2歳になる子供の存在が明らかになったことで、当時はかなり話題になりました。

「隠し子がいた」という形になってしまったわけですが、これには吉川さんなりの事情もあったようです。

入籍のきっかけとなったのが、2011年3月11日に起きた東日本大震災だったといわれています。

あの未曾有の災害を目の当たりにして、吉川さんは家族の大切さをあらためて実感し、正式に家族として歩む決意を固めたのでしょう。

震災から約3ヶ月後に入籍しているというタイミングが、その思いを物語っています。

世間の声

結婚発表については、「隠し子がいたのか」という驚きの声も上がりましたが、多くのファンからは「おめでとう」という祝福の声が寄せられました。

プライベートをほとんど明かさない吉川晃司さんが結婚・子どもの存在を発表したことへの驚きとともに、「吉川晃司もついに…!」という感慨のコメントも多かったようです。

現在はお子さんも10代半ばに成長していることになりますが、吉川さんは家族について積極的に語ることはあまりなく、プライベートを大切にされています。

吉川晃司さんは現在、元看護師の妻と長女との3人家族で、家族の絆を大切にした生活を送っているとみられます。

吉川晃司の実家についてのまとめ

  • 出身地は広島県安芸郡府中町
  • 祖父母は広島市中心部の中島地区で料亭「吉川旅館」を経営していた
  • 吉川旅館は原爆投下1ヶ月前に手放されたため、家族は難を逃れた
  • 旅館のあった中島地区は現在の平和記念公園・原爆ドーム周辺にあたる
  • 父・吉川正俊は旅館で生まれ育ち、若い頃は京都太秦で大部屋俳優をしていた
  • 父は旅館を継ぐために俳優を断念し、板前や喫茶店経営、タクシー運転手などを転々とした
  • 父は原爆投下後に広島へ戻り入市被爆。吉川晃司は被爆二世
  • 実家の経済状況は戦前は旅館経営の資産があったが、戦後は必ずしも裕福ではなかったとされる
  • 家族構成は父・母・姉・本人の4人家族
  • 姉が1人おり、紅白ギターたたき割り事件の後「兄弟の縁切るからね」と電話したエピソードが有名
  • 苗字「吉川」と広島安芸郡のつながりから、戦国武将・吉川元春の末裔という説もあるが確証なし
  • 修道中学受験の動機は「制服の白線がカッコよかったから」
  • 水球で全日本高校最優秀選手を2年連続受賞し、慶應大学特待生の誘いもあった
  • 佐野元春のコンサートに感銘を受け、修道高校2年で中退して上京・芸能界へ
  • 妻は元看護師(富山県魚津出身)、長女1人との3人家族で、2011年6月1日に入籍

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